ちょっと人よりサービス精神が旺盛がため、つい余計なことを言って、総理大臣と東京オリンピック・ パラリンピック組織委員会会長を辞任せざるを得なかった森喜朗元総理大臣。
わたしからすれば森元総理大臣の失言は、リップサービスにしか思えません。
今回も失言で総理大臣を辞任した後も、止まることのなかった森喜朗元会長の代表的な失言が、本当に失言だったのかをわたしなりに検証します。
キックオフ!
2003年6月 こどもを作らない女性を税金で面倒をみるのはおかしい
2003年6月26日、当時森喜朗元総理大臣は、自民党少子化問題調査会長だったそうです。
鹿児島市で全日本私立幼稚園連合会九州地区会が開催した少子化や子育てをテーマにした討論会で、以下のように発言したと言われています。
いいにくいことだけど、少子化のいま議論だからいいますが、子どもをたくさんつくった女性が将来、国がご苦労さまでしたといって面倒をみるっちゅうのが本来の福祉です。
ところが、子どもも一人もつくらない女性が、好き勝手とはいっちゃいかんけど、まさに自由を謳歌(おうか)して楽しんで、年とって税金で面倒みなさいちゅうのは、本当はおかしい。
結婚もできず、子供も産めなかったわたしが言うのもなんですが、この発言、いたって正論だと思いますね。
生きとし生けるものの最大の使命
まず生物学的な基本として、生きとし生けるもの全ての最大の使命は、より強い子孫を残し、その種を繁栄させることです。
人間より下等とされる、猫やスズメですら、命がけで子供を生み、守り、育て、より強い子孫を残そうとするのです。
ならば子孫を残せなかったわたしは、滅びゆく定めにあった劣等種族だったのでしょう。
ペンギンやオオカミですら命がけで子供を守るのに、高等生物とされる人間がそれを放棄するとは、言語道断。
しかし一方で、下等生物とされる昆虫や魚は死の危険が多いのでたくさん子供を産むと言われています。
死の危険が少ない高等生物とされる哺乳類は、子供の数も少なくてすみます。
人間界でも、発展途上国や貧困層など底辺の家族ほど大家族ですし、先進国の子供が少なくなるのも一理あるかもしれませんね。
ジョジョの奇妙な冒険で、完全なる生物に進化を遂げたカーズには、子孫や仲間はいらないそうです。
頂点は常にひとつだからです。
そして生物がより強い種を残していくのにたいして、カーズは自分の思うがままの世界を構築するのが、目的なのですって。
カーズは別格として、より強い子孫を残し、未来永劫種を繁栄させるというのが、あらゆる生命の最大の目的であると考えるならば、森喜朗会長のこの発言は、いたって正論なのです。
同性愛者の生物としての矛盾
生物の最大の目的が「種の繁栄」であるならば、同性愛などで子孫を残すことができない性的マイノリティーは、この目的に反する存在であるわけです。
そのためでしょうか。
旧約聖書には、子孫を残せない同性愛者は石打ちの刑にしても良いと書かれています。
新約聖書でも、同性愛者は神の国へは行けないと書かれているそうです。
だからロックバンド Queenのボーカルでゲイであったフレディ・マーキュリーは、ボヘミアンラプソディの中で歌ったのです。
Oh baby-cant do this to me baby
僕に石をぶつけて目につばをはきかけるつもりだな
そんなひどいことはやめてくれ
自分たちの信じる神が、同性愛者は石打ちをしてもいいと教えてるんですもの。
このときのフレディの絶望ときたら、わたしたちの想像をこえたものだったでしょう。
日本に同性愛者差別は存在しない
しかし!
日本神話によると天地開闢(てんちかいびゃく)、つまり世界が誕生して、最初に生まれた神には、性別がなかったそうです。
つまり日本という国は誕生したときから、LBGTをとっくに凌駕したところにあるわけです。
性別のない存在を認めているんですよ。
さらに武士の国である日本の武家社会では、同性愛は武士のたしなみでした。
織田信長の近習、森蘭丸などが有名ですね。
また歌舞伎は同性愛が文化になったものとも言われています。
同性愛が文化になっている国なんて、世界中探しても日本ぐらいしかないそうですよ。
つまり、日本ほど同性愛にゆるい国はなく、LBGT差別など存在しない。
よって日本にLBGT問題など必要なし!
だからゲイであるフレディ・マーキュリーは日本を愛したんですよ。
きっと居心地がよかったのでしょう。
話はそれましたが、子孫を残さない同性愛者は生物学的には、矛盾した存在だと言えます。
わたしは同性愛だろうと何だろうと自由だとは思います。
別に誰にも迷惑をかけてませんからね。
ですがLBGTは、生物としての本能的なものに相反する存在ではないかという違和感がつきまとってしまうのです。
そして生物として矛盾している存在が、この性別のない神様を持つ国で、何をそんなに声高に自己主張をするのか、不思議でなりません。
LBGTを叫ぶ前に、日本史の勉強でもすればいいのに。
するとあなたたちは決して差別されてきた存在ではないって、理解できますよ。
森首相の発言に怒る女性たちは文盲である
女性への感謝溢れる発言
当時森会長のこの発言は、今回のオリンピック委員会での発言同様に女性差別だと批判されました。
しかしもう一度、この発言をよく読んでください。
この発言は、女性蔑視というよりも、女性に感謝する言葉のようにわたしには思えます。
生物的な機能として、子孫を残す場合、男性より女性の方がリスクが高いわけです。
種だけばらまけばいい男性と違って、女性は妊娠後、約10ヶ月もの間、赤ちゃんが育つまでお腹の中で守り続けなければなりません。
また腹を痛めて生むとの言葉通り、出産も命がけの大仕事です。
妊娠出産に関して、男性よりはるかにリスクを背負った女性こそ、感謝をこめて国の税金で面倒をみましょう。
そういう女性への敬意があふれた発言ではないですか。
男性も女性も生物として持っている機能が違うわけです。
だから同列ではあっても、同質ではないのです。
また現在日本の将来において、少子化対策は最重要課題です。
100年先の日本を未来を考えるはずの政治家が、日本の将来のために、女性たちに子供を産むように促すのはいたって当たり前のこと。
それが分からない女性は、今と自分のことしか考えられないヨコシマで身勝手だとわたしは思います。
女性を一元化しているわけではない
今回の森会長の発言で批判されたのは、後半のこちらの部分が大きいでしょう。
この発言の批判された問題点をあげてみましょう。
女性に限定している
この発言は、女性と限定しています。
女性だけではく、男性だって子供を持たず好き勝手している場合もあるじゃないかという批判ですね。
それはごもっとも。確かにその通りです。
ただやはり男性か子供を作りたいと思っても、女性がそれを受け入れないと子供はできないわけです。
ですから子供を産むという選択権は、男性にはなく女性だけが持っている特権とも言えます。
それを考慮した場合、まずは女性から、ということで、このような主語になってしまうのも無理のないこと。
揚げ足をとって、ことさら責め立てなくてもよいのではないでしょうか。
子供を生めない女性もいる
この発言で最も批判された問題点は、やはりあらゆる事情で子供を持てなかった女性への配慮不足ということではないでしょうか。
特に身体的な事情で、子供を持ちたくても持てなかった女性を傷つける発言だと批判されました。
ですがね、この文章をよく読んでほしいんです。
「子どもも一人もつくらない女性が、まさに自由を謳歌(おうか)して楽しんで、年とって税金で面倒みなさいというのは本当はおかしい」
ここで森会長が指している女性は、産みたくても産めなかった女性ではないんですね。
「子どもをつくれない女性」ではなく、「子どもをつくらない女性」なんです。
産めるけれどもあえて産まない選択をして、自由を謳歌して楽しんだ女性のことを指しているんです。
フツーに義務教育受けてたら、産みたくても何らかの理由で産めなかった女性は、この発言の意図する対象ではないって分かりますよね。
フツーの文章読解力があれば、理解できるはずです。
だからこの発言で、「産みたくても産めない女性もいる!」って怒る人たちは、要は文章読解力が乏しいんですよ。
文盲なんです。
とりあえず、毎日、新聞でも読んで文章読解力を身につけるところから始めてみてはどうでしょうか。
はっきりと明言されてなくても、こういう意図で言ってるんだなと、行間を読む力をたくわえてから文句言ってほしいですね。
女性は子供を産まなければならないのか
この発言で問題視されたのは、子供を生まない自由を侵害しているというものです。
確かに民主主義、個人主義の現代では、子供を持つ自由も持たない自由もあるわけです。
わたしは当初、全ての生物の最大の使命は子孫繁栄であり、子供を持たないという選択は、生物学的には逆らっていると述べました。
しかしあらゆる生物が一生懸命子供を産んで育てても、厳しい自然界の中では育たない命の方が多かったりします。
また地球上で最大の繁栄を遂げたかのように思える人間だけは、直接子孫を残す以外にも、未来に貢献して名を残す方法がいくらでもあるわけですからね。
子孫を残す以外にも、人類に貢献する方法なんていまやいくらでもある。
それでも…。
わたしはやはり女性として生まれたからには、可能ならば、子供を持つべきだと思います。
まあ、子供を生めなかったわたしが言うのも何ですけどね。
特にわたしたち日本人は、2700年の歴史を持つ世界最古の国です。
わたしたちの祖先が高い知恵を持って紡いできたこの歴史を、千代に八千代に未来へつないでいきたい。
日本人ならば、日本史を勉強したなら、誰でもこういう気持ちになるのではないでしょうか。
わたしたちのおじいちゃんは、日本を守るために戦争へ行って、命がけで戦いました。
わたしたちのお父さんは、原爆を二発も投下され未曾有の危機に陥った日本を、命がけで働いて経済復興をさせました。
そしてわたしたちは日本のために何をしますか?
わたしたちのご先祖様がくれたこの日本という奇跡の国を、どうやって守りますか?
この美しい国を、どうかどうかずっと未来へつないでゆきたいのです。
女性は子供を産んで育てれば、日本と未来へ貢献したことになるんだからいいじゃないですか。
わたしはもう、子供を産んでこの大切な日本という奇跡に貢献することはできません。
だからこうしてブログを綴るのです。
それがわたしのできること。
あらゆる事情がありますが、経済的にも身体的にも問題なく、子供を持てるのに持たない選択をしたのであれば、それは未来のことを考えていないと感じます。
わたしたちは生きているのではなく、何か大きなものに生かされていることを知らない人は不幸です。
子供を持たない選択は、今と自分さえよければいい身勝手で不幸な判断です。
女性として生まれたからには、子供を産んで育てるのも一つの使命なのではないでしょうか。
森喜朗が批判したのは、この日本の持つ悠久の歴史に燃える魂を感じることができない愚鈍さです。
この奇跡を国を作った先祖への感謝への欠如です。
今と自分のことしか考えられない卑小な考えです。
自分の国を愛することができない愚かさです。
100年後の未来を思えない不幸です。
いつもわたしたちは、森喜朗にためされているのです。